幻覚ギター

みた映画、きいた音楽、よんだ本。

社交する人間

やっと読み終えた。 最後の方で「柔らかい個人主義の誕生」に続く現代社会に関する考察が出てきだしてからがおもしろかった。 以下の部分は特に今の僕たちの不幸を的確に示唆していると思った。
とくにグローバル化とともに組織が巨大化し、それを代表する個人の顔が見えにくくなった現代、組織は意志の主体でありながら責任能力を欠いた機械になろうとしている。それに加えてさらにその組織をすら飲みこんで無力化し、完全に顔のない主体として世界を支配する自由市場は、およそ責任の観念と無縁な妖怪そのものにほかならない。現代人の脅える新しいリスクとは、この巨大な無責任の意志の「神託」をまえにして、なおかつ自己責任を問われる矮小な意志の不安だといえるだろう。
この救済となるのが、この個人の生きるもう一つの世界の確保であり、それが以下のような社交社会である、と説いている。
自分をかけがえのない個人として処遇し、一人の何者かである人間として尊重してくれる他人、そういう存在としてふさわしい配慮を交換しあえるあいてを欲しがっている。自由を保障する付かず離れずの距離のなかで、しかも安心を担保する小規模の人間関係が期待されているのである。
ソーシャルネットワーキングなんて名前もそのまんま社交と合致していて、これが流行る背景もよくわかる。 他に近代国家に関する部分も興味深かった。近代のような国家という概念の歴史は非常に浅くて、もともと国といっても政治にかかわる人は一部のメンバーだけでもっとゆるやかな組織であったというのだ。それだけ国という単位はあいまいなものであったのだが、これを強固なものにするために近代国家は扇情的に国民に訴え愛国心を煽るようにしたのだ、と。 そう思えば国という単位でものを考えることに、僕がいつも抱く違和感というのも変なものじゃないし、ジミヘンの言葉にも代表されるヒッピー思想も夢物語とはいえないと思う。
愛国心を持つなら地球に持て」(ジミ・ヘンドリクス
といっても、南北格差とかいろいろ起こっている国際問題を解決するのは国同士の話し合い、という枠組みになっているし、国やその政治なんてどうでもいいとはしていられないのが難しいところだ。