幻覚ギター

みた映画、きいた音楽、よんだ本。

「ホモ・デウス」

こういう本と、グレッグ・イーガンとかの少しハードなSFを交互に読んでいるだけで、いくらでも妄想が捗る。そういう時間をもっと作りたい…。

近代以前、神や自然の法が人々の人生に意味を与えていた一方で、人々は力を持たなかった。人類が科学技術を手に入れたことによって、人生の意味は自分自身の内にあるという「人間至上主義」が新たな宗教となり、その正統派である「自由主義的な人間至上主義」と、「社会主義的な人間至上主義」と「進化論的な人間至上主義」の2つの分派が生まれた、という歴史的な俯瞰はわかりやすい。

さらに、第二次大戦と冷戦を経て自由主義が一旦勝利を収めたものの、「けっして間違うことはないとされる顧客と有権者」を前提とすることの問題点は、ポピュリズム市場原理主義への疑問等で明らかになっていて、今世界で起きていることはこれらの分派との再戦であることも、この流れの中で考えるとより理解できる。

さらに、この人間至上主義が前提とする自由意志の存在の曖昧さ(これは自分も大好きなテーマ)から、生き物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理であるという教義への収斂、さらにはAIのような技術により意識から分離した高度な知能の出現、という未来を説く。

21世紀の経済にとって最も重要な疑問はおそらく、膨大な数の余剰人員をいったいどうするか、だろう。ほとんど何でも人間よりも上手にこなす、知能が高くて意識を持たないアルゴリズムが登場したら、意識のある人間たちはどうすればいいのか?

人間が生きていくために必要な食料やインフラ(国家自体も含めて)を作るための頭脳や労働力としての人間、それらを消費・享受するための人間、それらを通して幸福を追求べき存在としての人間。すごく単純化すれば、それらがうまく回っているのが現在(過去かもしれないが)と言えて、今後、最初の部分に人間が不要となった場合に人間は何を教義として生きていくのか、という大きな問いで本書は終わっている。

冒頭に書いたグレッグ・イーガン「ディアスポラ」の世界(デジタル化による不老不死は別としても)のように、それぞれの人間がやりたいことをやって生きていくような理想郷的な世界になるのか、必要な規模に人類が縮小して、やがて滅んでしまうのか…。

ただ近い将来を考えても、現在の世の中の個人、組織、国家がそれぞれ部分最適しすぎた故にこの世の中全体のシステムがあまりに複雑化してしまったことへの揺れもどしは必ず起こるだろうし、一方で一部の指導層に全てを委ねることの危うさも明らかで、そういった全体最適な意思決定にAIのような技術が使われるようになるのは避けられない気はしている。

とにかく、妄想の捗る良い本だった(笑)。